●その手は桑名の
桑名というと東海道四十二番目の宿である。現在のJR東海道線は、豊橋−名古屋−岐阜−大垣−米原と進むが、かつては宮宿(熱田神宮の門前町)の次は海路伊勢湾を渡り、桑名だった。名古屋宿へ向かうのは美濃路。
桑名城は徳川四天王の一人、本多忠勝が築。築城とあわせて城下町も整備したとのことで、この広々スッキリした街の造りはその名残か……といった辺りで歴女対応、完了!
名古屋流なのか、はたまたオレ竜か、それにしてもやけに道幅の広い歩道である。昼間は日差しを避ける場所無く、夜は逆に風が抜けて涼しい。
路上を歩く人がほぼ居ない。人の気配がしたのは、かの高名なる居酒屋「てっぺん」の前を通ったときぐらいである。今年1月にオープンした新店「魚のてっぺん」の前に立つ店員に話し掛けたところ、つい先日東京渋谷は宇田川町の「男道場(てっぺんの店のひとつ)」から移ってきたばかりという。「じゃあGORO'Sさん知ってます?」「ハイ、吉澤さんの……」ってなんだ、世の中狭いな。桑名はてっぺん代表・大嶋氏の出身地、お膝元である。
2009年09月16日
# 212 BROWN FLAVOR [三重・桑名]
2009年09月02日
# 210 さくら咲くカフェ [愛知・半田]
名鉄河和線(めいてつ こうわせん)の青山駅近く、K'S PIT大村オーナーに連れて行かれたもう1店(この後、オリバへ……)。私と見るとどうもハンバーガーを食べさせたくなるらしい……いえ、ふつうに地元の名物とかでいいんですよ。
●洋食屋跡
店名は「さくら咲く」だが、出来たのは春4月でなく梅の雨降る6月5日。まだオープンしたばかり。チェーン店を思わせる立派な構えだが、まだこちらが1店目。
さくら咲くと言うと今冬のキットカットのことを思い出す――TBSの裏に「赤坂サクラサク神社」なんてのも在りました。エスケールさんもお連れしましたが。こちらの店のネーミングの由来は、春になると咲き誇る青山武道館の緋寒桜(ひかんざくら)のことであったり、そもそもオーナーの好きな花であったり。
倉庫のように大きな店構え、ココには以前「シェリールージュ」という洋食店が入っていた。地図ではまだシェリールージュのままになっているか。
通りからは完全に入った所なのだが、店の前は抜け道になっており、案外と交通量多し。天井高く、席の配置にゆとりあり、またこどもが非常に多い立地であるため、キッズスペースをきっちりと確保。最近「倍」に拡張してさらに悠々と遊べるようになった。よく見れば実は各卓、椅子の種類が違っていたり。壁にコーヒー豆の袋が唐突に貼ってあったり。平日午前中の訪問ということもあり、店内女性客ばかり。
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2009年05月23日
# 209 Burger Boy Cafe [京都・亀岡]
国境の長いトンネルを抜けると亀岡であった。
●丹波国
話はまだ続く――桂川サイクリングロードの起点、嵐山からさらに川を遡ってゆくと、山谷険しくなり、やがて保津峡(ほづきょう)。トロッコ列車に川下り――新緑の候、イイ季節になってきた。
保津川(桂川)の上に跨る保津峡駅は秘境駅として知られている。ココが京都市西京区と亀岡市との市境であり、古くは山城国と丹波国の国境であった。保津峡よりふた駅先、山陰本線(嵯峨野線)亀岡駅近くには明智光秀が築いた亀岡城の址がある。
その亀岡駅のさらにひと駅向こう、並河(なみかわ)の駅前に、オーナー筧(かけい)さんが物件を買ったのは3年前のこと。4代住み続けた京都市内の土地家屋を手放して、こののどかな郊外に移り住んだ。
●整備士
以前は自動車を診たり、戦車を診たり(?)、整備士の仕事をしていた。なので機械仕事はお手の物。店前に置いてあるラジオフライヤーや、店奥の壁に突っ込むミニクーパーは、すべて筧さんの手になる。ちなみにトランクの中は……宝箱!
実にアメリカンな店内である。白黒チェッカー模様のフロアにターコイズブルーのダイナーチェア。かかる音楽はオールディーズに時折グレン・ミラーやベニー・グッドマンなど。片道2時間かけて尼ヶ崎のコストコに買い出しに通う成果が、店内の其処彼処をポップに賑わせている。
2009年03月31日
# 208 Junk Food Parlor HOT CHOP [京都・長岡京]
Junk Food Parlor
HOT CHOP
前回の「マハロ」よりの続き。桂川サイクリングロードを下れば鳥羽、上ればやがて嵐山――さて、どちらに進もうか。
●バーガーとハーレー屋
桂川をもそっと進むと京都競馬場、真南に折れて木津川沿いに下れば、ほどなく国会図書館関西館のある相楽郡精華町(そうらくぐん せいかちょう)。我が『HAMBURGER STREET創刊準備号』はココにも所蔵されている――って宣伝ですが(笑)。さらにもう少し行くと終点、木津。
但し今回は自転車でなく、バイクのお話である。
鳥羽のすぐ先、桂川と鴨川との合流点に羽束師橋(はづかしばし)という、変わった名前の橋が架かっている。ざっくり言うと、Junk Food Parlor HOT CHOP(ホットチョップ)はその辺に在る。
オーナー"けんたろー"さんはバイクのビルダー歴19年。「ハーレー屋」でビルダーをしながら、念願のハンバーガーショップを始めた。半年ほどの間、昼はハーレー屋に勤務、夜は自分の店に立つという、会社公認の完全掛け持ち状態だったという。やがてハーレー屋を退職、自身の店に専念する。
●20年越しの夢
けんたろーさんは洋食のコックだったのである。アメリカ好きでハンバーガーが好きで、いつかハンバーガーをやろうと思っていた――「いつかはネ」。
16歳で古着とバイクに目覚める。初めてのバイクはヤマハのSR。
その当時、「モスバーガー」をよく食べていたが、箕面と大阪市内に「カールスジュニア」が在り、コレにもよく通った。この辺り、西宮の「エスケール」さんの話とも一致する。
洋食のコックとクルマ屋の掛け持ち時代の後、古着とSK8(スケートボード)の買い付けで約2年の間、ロサンゼルス、サンフランシスコ、メキシコなど主に西海岸に渡ることが多かった。ハーレー屋に"定住"するのはその後のこと。
そして3年前の秋10月、ハーレー屋に身を置きながら、念願のハンバーガーショップ「Junk Food Parlor HOT CHOP」をオープンさせた。コックの時代から数えて、実に20年越しの夢の実現である。
さらにその1年後の2007年10月、今度はハーレー屋「HOT CHOP SPEED SHOP」をオープン。てっきり私は「バイク屋がバーガー屋を始めた」ものと思い込んでいたのだが、実際には逆、「瓢箪から駒」ならぬ「バーガーから鉄馬」が正しい順番である。
2009年03月09日
# 207 九条ねぎバーガー MAHALO [京都・西大路]
「関東は白、関西は緑」とくれば――そう、ネギのお話である。
●白と青の肖像
前回の「SUNNY DINER」がある東京・千住(せんじゅ)は、「千住ねぎ」なる根深ねぎ(白ねぎ)の種類で知られるが(日本で唯一ネギしか扱わない市場がある)、片や京都・九条と言えば「九条ねぎ」の産地としてあまりに有名。千住の白ねぎに対して九条は青ねぎ(葉ねぎ)。寒くなって特有の「ぬめり」と甘味が増した冬場が食べ頃である。
そんな九条ねぎを使ったハンバーガーを出す店がある。
使っている食材も凝りに凝っている。
「パテは本当に数少ない丹波牛100%」「天保年間創業、本田味噌の絶品味噌」「老舗ご当地ツバメソースをベースにしたマハロ特製ソース」「マグネシウム、カルシウム、カリウムが豊富に含まれた京丹後の琴引きの塩」、そして「京野菜と言えば九条ねぎ 農家の丹精こめて育てられた伝統野菜」さらに玉子も丹波地鶏と、トップバッターからラストバッターまでこれだけがっちり「純京都」で固めた打線ながら、チーム名はなぜか「マハロ」……(笑)。
このセンスを「理解する」と言うか、歩み寄れる自分になるまで、ざっと2時間は要したろうか――えぇ、成長しましたトモ。
●マハロ
「マハロ」とはハワイ語で「おおきに」という意味である。
ハワイの掘っ立て小屋をイメージした店内はカウンター5席、テラス7席。小さいが日のよく差す明るい店で、BGMも「いかにも」なロックナンバーが軽〜く流れて、スローな良い空気を醸している。この小屋にしては有り得ぬ高さの天井にファンがゆらゆらと回って、狭さを感じさせぬ、なかなかに好い居心地である。
しかし供されるのは京都の伝統食材を使ったバーガー。京都なのかハワイなのかハッキリしなさい! とカウンターひっくり返したくなるところだが、コレには実に根の深ーいワケがありまして……ネギだけに。
2008年09月28日
# 203 toms [京都・一乗寺]
京阪のる人、おけいはん ―― そうだ 京都、行こう。
●Ichijoji Sagari Matsu(一乗寺下り松)
そんな赤と黄(きい)の肖像、京阪電鉄から乗り継いで、ココは叡山電鉄一乗寺駅。
駅の東は徐々になだらかな傾斜が付いて、街中とは趣を異にする住宅地。その只中に、宮本武蔵と吉岡一門の決闘(fight)で有名な、あの下り松(さがりまつ)がある。下り松の辻から緩やかな坂をさらに登れば圓光寺、八大神社、狸谷不動院など。この日は江戸初期の文人・石川丈山の山荘だった詩仙堂に長居して、夏の都の涼やかな風をしばし楽しんだ。
本日の真の目的は詩仙堂ではなく、平らかな駅の西側。世に「ラーメン街道」と呼ばれる、西国一のラーメンの"メッカ"に隣接しつつ、その熾烈な争いをよそ目に、のどやかにハンバーガーを作るカフェバーのお話である。
●Northern Ireland(北アイルランド)
以下、アイルランド人の店主と英語に不慣れな日本人との会話につき、軽度のルー語発症……(一部原文掲載)。
左京区は大学が多い。お隣・修学院駅近くには京都大学の International House (国際交流会館)があり、付近には大学で英語を教える外国人講師たちが多数住んでいて、ちょっとしたコミュニティが形成されている。breakfast が絶品の「SPEAK EASY」は、そんな彼らの溜り場。
さて彼ら英語教師たちが講義の行き帰りに stop off, 取り留めない世間話などしながら、のんびりお茶する(orお酒する)場所が、此処 toms である。店主曰く―― rest & relaxation.
店主、Tom Brown さんは北アイルランドの首都・Belfast (ベルファース)から車で1時間、Bangor (バンガー)という街の生まれ。To be honest, フットボールよりラグビーの方が好きで(I prefer rugby)、アイルランドチームの試合は全て観たいそうなのだが(I love to watch all of Ireland games)……おっ? 9月22日からハイネケンカップ?
6,7歳の頃、"NATIONAL GEOGRAPHIC" に載っていた Saihouji (西芳寺、苔寺)の写真に惹かれ、ずっと日本に行ってみたいと思っていた。Hirohito, 昭和天皇崩御の頃、初来日。その後香港に渡り、日本の Yamaichi (山一証券)の社員相手に英語を教えていたが、そのまま英会話講師として再来日。最初は一年日本に居るつもりだったのが二年になり、二年が三年になり、気が付けば滞在のべ18年。その間、あの NOVA などで教鞭を執っていた。修学院界隈の英会話講師仲間は、多くがNOVAつながりという。
ちなみにYamaichiとNOVA、Tom さんの関わった2社はいずれも倒産しているが、無論当人の力に因るところではない。
2008年05月27日
# 199 Esquerre [兵庫・西宮]
「パン屋が始めたバーガーカフェがある」と去年、雨の名神高速を走りながら、AMBの岩波さんから聞かされて以来、コノ店にはひとかたならぬ興味があったのである。一体どんなバンズで合わせてくるのかと――。
●六甲山の向こう
西宮(にしのみや)と聞いたら、私は阪急沿線をまず思い浮かべるのだが、その認識は甘過ぎた。神戸市もそうだが、この西宮市もタテ(南北)に異様に長いのである。浜風そよぐ甲子園球場から、山を分け入って中国自動車道のさらに向こうまで、全てが西宮市である。最初地図で所在地を確かめたとき、どうやったら行けるのかと途方に暮れたものだ。神戸の人からしても六甲山を越えるということは、とんでもない外国へ行くことであるらしい。
神戸鉄道三田(さんだ)線の岡場駅が無理矢理言えば、最寄り。山口町というそれこそ山間を切り拓いて造った住宅地に、ベーカリー"エスケール"が誕生したのは今から15年前のこと。
聞いた話をウンと縮めて書くと、三澤社長は大学を出てからパン作りの道を目指したのである。今でこそ「手に職を」と叫ばれて久しい御時世だが、「なりたい職業」1位が証券マンだった当時とすれば、大学を出てまで職人になるなど、まさに無謀の極みだった。
神戸ベルに入社。パン職人になりたくて入ったのに、大卒というだけで事務職へ回そうとする会社に直談判して、ようやく工場勤務になったものの、それでも工場長だの幹部候補だの、すぐそんなレールを敷こうとする。そんな中入ったパンの道は職人の厳し〜い世界だったが、「今に見ておれ〜!」な根性で寝る間も惜しんで技術を磨き、やがて入社3年、現在にも通じる大きな転機が三澤社長に訪れた。
2008年05月22日
# 198 SEA DINER [福岡・西鉄平尾]
舞台はふたたび博多。「トマトファーム」のある高宮から西鉄福岡(天神)へひと駅戻って、平尾の駅――。
●クルマ好き
ここ平尾は住宅街とオフィスが混ざり合う、境界線のような場所であるという。駅から歩いて2分足らずの好立地に、この輝くアメリカンダイナーが出来たのはちょうど10年前。
オーナー馬場さんの終わり無きダイナーへの挑戦は、自身のクルマ好きからスタートした。アメ車の雑誌を眺めるうちに、興味の対象が背景のダイナーへと拡大、ついには自分の手で再現してみたくなった――しかもなるべく"忠実"に。
のべ10年近く、イタリアンをはじめさまざまな飲食店を渡り歩いた人である。ダイナーオープンを決意したのが20代の前半。始めたのが27歳。始める際には親戚一同全員反対の憂き目に遭い、「いつか見ておれぇ〜」的悔しさをバネに買った愛車がシボレーのC/K・94年製という、根っからのクルマ好きである。
●目指すは「ふつう」
店は道路よりやや奥まって在り、店前には駐車スペースがゆったりと確保されている。
ステンレスボディに青いネオンがクールなファサードを一歩入ると、店内は戸惑うくらいにガランとしている。白壁に掛かるROLLING ROCKのプレートと、ベンチシートに並行して横一線に取り付けられたマガジンラックを除けば、装飾らしい装飾はほとんど無く、殺風景にすら感じられる。
これまで見てきたダイナーは、無数のネオンサインがきらめいて、ジュークボックスありピンボールあり、天井にはファンが回っていたりと、こってり濃厚&ド派手な、極めて彩度の高い場所ばかりだったが、引きかえコノ店のシンプルさはどうだ。その辺りの匙加減こそ、馬場さんのまさに意図するところなのである。目指すは「ふつう」――。
「いかにも」なアメリカン雑貨で飾り立てるのでなく、実際に向こうで使われているモノ――シュガーポットやナプキンディスペンサーを始めとする店舗用品、プロ向けに造られた厨房機器など――アチラの店舗で「ふつう」に業務で使用されているモノを使ってこそ、真にアメリカらしいダイナーなのではないかと。
2008年04月23日
# 195 burgers [福岡・高宮]
出だしはやや重く――。
●思い詰める
オーナー城後(じょうご)さんは大学・就職・結婚まで、生まれてこの方、ずーっと博多で過ごしてきた。この間さまざまなことから、日々の生活に行き詰まりを感じ(しかも夫婦ともども、それぞれに)、思い詰めた果てに「一度博多を出て、別なところでイチからやり直そう」と結論したのである。「ハンバーガー屋やります」と言って10年勤めた会社を辞めた――そう言われて受け容れた上司も上司である。
とは言え腕の覚えは学生時分、モスバーガーでバイトしていた程度。どうせやるなら外人に見てもらおう、彼らに「YES!」と言わせれば、どこででも通用するんじゃないか――と、そんな思いを胸に、新天地沖縄へと飛び立ったのである。
●沖縄へ
移住後しばらくは、ひたすらのバカンスモード。合間に物件探しと試作を続けた。ある日散歩中、空き店舗の看板がふと目にとまり、そのままそこがバーガーズ創業の地となった。
那覇から車で40分、北谷(ちゃたん)という町にある。300〜400坪はある広大な駐車場の端にポツンと建つ、元焼き肉屋だった木造店舗を明るいクリーム色に塗り替え、いかにも南国らしい開放的な店にリニューアルした。店内16席+テラス最大20席、向かいは安良波公園、その向こうはアラハビーチ――たまらぬロケーション! (→地図)
用あって行く場所でもなし、しばらく客入りはサッパリだったが、やがて徐々に日本人もアメリカ人も来始めて、特にアメリカ人はバーガー食べて泣いて喜んだという。沖縄のburgersは極めて盛況だった。
その成功を見て、商売に「不向き」とされていたこの場所に、後から8店が続いた。のんびりした場所で気ままにやっていた筈が、急に気忙しくなり、手狭になり、煩わしさが生まれ、お子さんが小学校に上がるタイミングだったこともあり、福岡に戻ることに決めた。
かくして4年弱続いた沖縄のburgersは'06年2月に閉店。同年10月27日に福岡市南区野間二丁目に再開した――という次第。なお北谷の店舗跡は、現在別のバーガー店になっているが、両店につながりはない。
2008年04月17日
# 194 TOMATO FARM [福岡・高宮]
●高宮
大橋からひと駅戻って、高宮。この高宮と隣の平尾の辺りは古くからの住宅街であるが、大牟田線と並行して走る高宮通りのケヤキ並木はまだ若く、閑静な佇まいの中にもさわやかな印象を与えている――おそらく電線が無いのが、そう思わせる一番の理由だろう。
20年以上前のこと、この高宮通りを中心に大がかりな区画整理が行われた時期があった。電線はそのとき地中に埋められたのだが、ちょうどこの同じ頃、高宮で最初のハンバーガーショップが産声を上げている――トマトファームである。
●味の保証
若久(わかひさ)川という小川(放水路)が前を流れて、遮るものなき好立地。今年で23年――「20数年ともなると、もぉ『味の保証』みたいなもんでしょ」「久しぶりに来たお客さんに『あっー!あったー!!』と言ってもらえるのが嬉しい」とは、現在コノ店をほぼ一人で切り盛るお母さん。
ご夫婦で始められた。ご主人は会社勤めをしていたが、いつか「食べ物屋」をやりたい夢があり、シロウトでもできそうな……ということでハンバーガーを選んだ。よく耳にする開業の理由だが、されどきっちりと積み重ねられた23年という歳月を前にしては、そんなことなどどうでもよい。
オープンは'85年。ハンバーガーというよりコーヒーショップという趣の店内。入り口にはカララン……と入店を告げるベルが取り付けられている。
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2008年04月12日
# 193 K's Burger Shop [福岡・大橋]
生まれて初めて西鉄に乗った。西鉄福岡(天神)駅を出て、薬院を飛ばし、西鉄平尾、高宮、大橋――この辺りの天神大牟田(おおむた)線の各駅には、ハンバーガーショップ/ダイナーがちょうどいい塩梅に並んでいる。というワケでこの度のお題は……大牟田線"ずばり"途中下車の旅。
●大橋
大橋は学生の街という。周辺には"大中"の学校が多くあり、朝夕は彼ら通学客で大いに賑わう。メインは東口。店は「裏手」に当たる西口に在るのだが、それでも西鉄福岡、西鉄久留米に次いで、西鉄全線で3番目の乗降客数を誇るこの大橋駅の徒歩1分圏に位置するワケで、「人通りが少ない」などということはまるでなく、全国の他のバーガー店と較べても、かなり恵まれた立地のように思われる。
オーナー白水(しろみず)さんがこの狭隘な物件で店を始めたのは'06年4月18日。ハンバーガーとの出会いはそれよりウンと遡った昔のことである。
●リサとバーガーイン
白水さんのハンバーガーとの出会いは小学校2,3年の頃、仲良しの家のおばさんに連れて行ってもらった、西中洲の「ハンバーガー リサ」でであった。リサのハンバーガーを食べた白水少年は「こげなウマかモンがこの世の中ばあったったい!?」というくらい強い衝撃を受け、以来その思いを忘れることがなかった。日本にマクドナルドが上陸する前夜――当時は牛肉などまだ頻繁に口にする時代ではなかったのである。
高校時代、ディスコでひと汗掻いた後に食べるリサのハンバーガーを、カッコ良く感じたりもしていた。
やがて社会人――出張で東京に行った折、六本木に「ハンバーガーイン」という店があると聞き、訪ねてみた。すると幸運にもこの日、オーナー夫人と2時間あまりにわたって話し込む機会を得、「いつか自分もハンバーガー屋をやりたいんです」「始めたら必ずご報告しますネ」などと熱く思いを語ることができたのである。
ロアビル向かいにあった歴史あるコノ店は'05年10月に閉店してしまい、結局この一度切りしか行くことは叶わなかったが、それでも六本木のハンバーガーインと博多のリサは、特別な思いを伴う、あるいは日々の「励み」となる店として、白水さんの胸の内に今なお深く生き続けている。
2007年10月23日
# 189 SUN-BURGER [滋賀・彦根]
◆ 第14回 ◆ SUN-BURGER [彦根]
今秋9月1日にオープンしたばかりの近江牛を使ったハンバーガーショップ。
●南彦根
静かな駅前である。コンビニなどは見当たらず(東口にスーパーがあった模様)、目に留まるのは、この小駅にしては多過ぎるビジネスホテル数軒。途中、松下の工場が見えたので、その需要か。
駅からは県道に沿って平坦な道のり。クルマ社会なので、地元の人は駅から歩くこともないだろう。この一帯、稲作地帯と言えばまぁそうだが、県道528号(彦根環状線)に沿って家が建ち、生活に必要な諸施設・諸機能もそれとなし集まっている。
「小泉町」の交差点でクロスする県道206号(三津彦根線)にはマルゼンや市内唯一のユニクロなどが並び、ここが地元の生活の中心だろう。そのスーパーマルゼンのハス向かいに我らがサンバーガー。なので人の集まる立地である。
●4代目はイタリアン
……スミマセン。↑あまりな時代錯誤と低質な駄洒落……あらためます。
2007年09月09日
# 185 8 Cafe hamburger [名古屋・車道]
またまた変わったお店に出逢ってしまった。
●テイクアウトの世界
マスターは惣菜屋に8年、おにぎり屋に7年居た。と言っても自分の店をやっていたのでなく、おにぎりや惣菜などを製造・販売する会社に勤めていたのである。
惣菜屋は売場づくりで決まるという。今日は何を特売にし、いくらで売るか。「コレが欲しくて」という目的買いの客に「コレもついでに」ともう一品、いかについで買いさせるか……などといったことを日夜考える人だった。
おにぎり屋は物件探しに始まり、店舗の立ち上げ全般に広く携わった。7年というから相当な数の店をこなしたに違いない。そんなテイクアウト叩き上げのマスターが、イートインを始めたくなったのだという。実は長い間の夢だったのである。
●コーヒー好きの世界
惣菜の流れでハンバーガーに行き着いたわけではない。話はもっとずっと意外である。
マスターはコーヒー好きなのである。それも聴く限り、かなり王道な愛好家である。コーヒー豆を敷き詰めてベッドにして寝たい――と言う。ふらと入った喫茶店でブレンドを味わいながら豆の種類を当て、さらにそこから店主の人柄までイメージすると言う。モカを飲みながら遥かアフリカの大地に思いを馳せ、豆を収穫する女性たちの姿を思い浮べる……だからかなり王道な愛好家だと言ったでしょ。
マスターはカフェがやりたかったのである。
カフェの主役はコーヒーである。それに「付随するもの」として、マスターは1.サンドイッチ、2.ハンバーガーを思い付いた。ところが調べるうちに、すっかりバーガーが面白くなってきてしまったのである。ついには店名の一部を構成するまでになった。なのでバーガーを始めたきっかけは、流行りでも何でもなく、ほんの偶然だった。
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2007年08月31日
# 184 K'S PIT [愛知・半田]
その一軒家ダイナーは、小高い丘の上にあった。
●高級住宅街
名鉄河和線・知多半田駅または成岩(ならわ)駅から徒歩15〜20分――店の近くの図書館のアクセスにはこうあるのだが、夕闇が降り始めていたので道路端で迷わず右手を上げると、タクシーはやがて思いがけないくらいくねった山道を登り始めた……いやー、歩こうなんてミョウな考えを起こさないでよかった! 等高線のない地図からはこのような標高差は読み取れない……って、そりゃそうだ。
知多半島の"背骨"に当たるであろうこの丘陵地は、半田市内随一の高級住宅街である。15年前までは「ただの山だった」ところに、先の市立図書館や博物館、野球場、公園など、市民の憩いの施設が各種設けられて、美しい街並みを呈している。K'S PIT(ケーズピット)はそんな中に「ふと」あるのだ。
●またもジョージーズ
オーナー大村さんが高校生の頃、世は50'sブーム(名古屋ローカル? スーベニアの福永氏もまるで同じことを言っていた)。アメリカン雑貨の魅力に憑り付かれて、やがてコレクションを並べたカフェでも始めようと、せっせと蒐集に専念していた。ところがそのささやかな夢は、とある店の前を通りがかったとき、木っ端微塵に粉砕されてしまう。その店とは――またしてもジョージーズ・ダイナー! 18歳、高校3年生のときである。
こうして話を聴き集めてゆくと、このジョージーズはいったいどれだけの人の人生に影響を与えたのだろうかと、無くなりてなお、生ける若者達を走らす――その底知れぬパワーには畏敬の念をすら覚えるのである。
※ 参考:# 183 Cafe Downey [名古屋] # 170 Sekky's Diner [岐阜]
ここから大村さんの人生はダイナー道まっしぐらになる。調理師として働き始め、23歳のとき渡米。ビザの期限までの3ヶ月間、アパートを一室借りて拠点とし、西海岸を中心に雑貨店めぐりやフリマのハシゴなどしながら蒐集した雑貨・アンティークは全てコノ部屋に放り込んで、合間にダイナーに足を向ける――というような「三昧」な3ヶ月を送った。
2007年08月25日
# 183 Cafe Downey [名古屋]
ダウニー日赤イースト店の現店長・前島さんは「スタッフ日記」の中で「自分が名古屋で食べたうまいハンバーガーの店」(2003.12.07)の回想をおこなっている。
それはもぉ〜目くるめく名古屋の歴代バーガーショップ/アメリカンダイナーのオンパレード! 「UPTOWN DINER(アップタウン・ダイナー)」や「GEORGIE'S DINER(ジョージーズ・ダイナー)」など、彼ら現役ダイナースタッフ/オーナーたちの間でいまだ熱く語り継がれる、これら伝説の名店(←正直、大袈裟とは少しも思わない)の名前に強く強く惹かれて、これで5度目の名古屋取材旅へと向かった……暑いのに。
●ハートが快晴になるカフェ
ダウニーは名古屋市の真ん中やや東寄り、天白(てんぱく)区は八事(やごと)を中心に市内外に5店、そして神奈川県は藤沢に1店を構えるカフェである。
1980年から8年間、米国西海岸・カリフォルニアでケーキとサンドウィッチの店を営んでいたオーナーが、帰国して郷里・名古屋に'91年にオープンさせた。店名は米国の店が在った小さな街の名に因っている。
サンドウィッチをメインとしたフードメニューもさることながら、ケーキ、クッキーなどのスイーツが大人気。訪ねたこの日、私の見た限り、ほとんどのお客さんがケーキの持ち帰りだった。ミッドランドスクエアのDEAN & DELUCA(ディーン&デルーカ)やセントレア(中部国際空港)などでも販売しており(有名百貨店で期間限定販売も)、いまや「名古屋みやげ」としてのネームバリューも徐々に確立されつつある。中でもダウニーバスは気になります。
2007年08月19日
# 182 オリエントバーガー [愛知・半田]
半田の人はみな、コノ店のことをオリバーと呼ぶ。
●半田市
半田(はんだ)は愛知県西南部、知多半島の中央に位置する人口約12万人の都市である。セントレアのある常滑(とこなめ)市と背中合わせの関係。出身者にあの「ごんぎつね」(知ってる?)の新美南吉ですよ。
名鉄河和線とJR武豊(たけとよ)線、2つの半田駅よりこのオリバー方面へと向かう中町通りの商店街はだいぶ錆び付いてきており、その一方で最新のマンションが幾棟か建っていたりで、これは名古屋への通勤圏と見るべきか、それとも常滑に向いているものなのか、ちょっと判じかねるが、まぁとにかくクルマばかりで人影を見ない。
「中町」の交差点で折れ、JRの線路の方に向くと、知多バス「中町」停留所のやや先に推定築40年の日之本ビル。その1階右端のテナントが創業昭和58年、地元では「オリバー」と呼ばれるオリエントバーガーである。
●第2次オイルショックと外食産業
オリバー店主が初めてハンバーガーと出逢ったのは18歳――名古屋のマクドナルドで、である。しかしこのとき「こんなおいしいもの食べたの、初めて!」と唸ったのは、バーガーでなくシェイクの方だった。
いざ就職! というタイミングで第二次オイルショック(1978)。世の中のあらゆる産業が振るわぬ不況下にあって、唯一オイルショックなぞどこ吹く風の絶好調な業界――それが外食産業だったのである。
すかいらーく1号店'70年7月、マクドナルド日本1号店が'71年7月、以下ロッテリア、デニーズ……と、まさに70年代は外食産業の黎明期である(などと私が言ってよいものか)。「今でいうIT産業的存在」(店主談)――つまりその将来性が最も期待される、前途有望の成長分野として外食産業は飛躍的な伸張を見せていた。店主もその盛んな勢いと可能性に強く惹かれ、当時の最先端分野に足を踏み入れたのである。
2007年05月06日
# 173 コンパル [名古屋]
名古屋とくれば、やはり喫茶店でしょう。
●上前津駅から
創業昭和23年(1948年)、コメダ珈琲店やヒマラヤと並び(と言ってもこの列挙が適当かどうか自信なし)、名古屋を代表する名喫茶のひとつ。オフィシャルサイトのひとつもあってもよさそうなものだが、きっと客層とネットユーザー(ないしはパソコンユーザー)があまりにも重ならないのだろう、ゆえにそんなモンなし。
名古屋市内に11店舗(と言っても何処にあるのかわからず)。本店がコノ大須。ひと口に大須と言ってもなかなかに広く、上前津(かみまえづ)の駅から徒歩圏のコノ辺りがむしろ中心地とか。
●万松寺
万松寺(ばんしょうじ)のヨコ。この万松寺、織田信長が父・信秀の葬儀の折(1552)、位牌に抹香を投げつけたという、有名なアノ逸話の舞台……と言いたいところだが、その当時、寺のあったのは別の場所で、名古屋城築城にあたり現在地に移転してきた(1610)……と聞くと、なぁ〜んだ!という感じ。
しかしそこは名にし負う万松寺。焼香のエピソードや幸若を舞う信長公の姿などを再現したからくり人形を公開している――2時間おきに戦国乱世の"嵐"が吹き荒れます。
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2007年05月02日
# 172 LAYER'S [名古屋・丸の内]
名古屋丸の内OLに告ぐ――ハンバーガーにはやっぱり○○○!(正解は一番下)
●丸の内三丁目
丸の内三丁目をオフィス街と呼ぶのも少し違う気もする。明らかに繁華街ではない。インテリジェントビルが林立するでもなく、酒屋もあれば料亭もあり小学校もある、懐かしい匂いを残す町並みだが、休日の人口が激減するのを見れば、やはりオフィス街で正しいだろうか。外堀通を隔て、三の丸の官庁街へと続く場所なのでオジサマ受けのする店が多く、OLはどこに食べに行けばよいのやら、お昼にはちょっと困っていた――。
●夢のリフォーム物件
そんな状況を踏まえ、女性が気軽に利用できるハンバーガーショップを――と颯爽と登場したレイヤーズだが、実はコノ場所、元は目も当てられないような荒れ果てた物件だったのである。
そこに徹底したリフォームを施し、原形が在ったこと自体想像できないほどの華麗な変身に成功。お約束の「どうしても無くせない梁」などを巧くカバーしながら、全く新しい空間を生み出すその技術と発想の高さは、"ソノ筋"で取り上げられても決して不思議ではないだろう。折角なので"ビフォー"の写真をどこかさり気なく置いておけば、そんな話でひと盛り上がりもできませうか。2Fのデザイン事務所との調和も示し合わせたかのような秀逸さ。
手前にカーポートがあり、奥まって店舗。入り口までの10数歩の間に期待と興奮の高まる、ワクワクするエントランスだ。
内外装に白木を駆使し、随所に配されたグリーンとともに店のコンセプトカラーに。カーキ色のソファと壁の淡いグリーンが印象的。BMGもカフェ調に軽くして、くつろいだ空気を生み出している。ナチュラルでライトなトーンの清潔感あふれるバーガーショップ。仕事に戻りたくなくなるかも……
●ブラザーズ
オーナー久保さんとは、実は知らずのうちに何度か会っている。場所はお江戸日本橋人形町、都内屈指の名店BROZERS'。
"自分の仕事"がしたくて会社勤めをスパッと辞めた久保さん。さて何を始めよう……というとき、月刊『Lightning(ライトニング)』の別冊にBROZERS'オーナーのインタビュー記事の載っているのが目に留まり、コレだ!と即電話。「3ヶ月」と自ら期限を切って、宿も決めぬまま東京へ乗り込んだ。
3ヶ月という限られた時間の中でハンバーガーの作り方をマスターするのはもちろんのこと、メンタルな部分でBROZERS'オーナーから受けた影響は実に大きく、店をやる上での支えになっているという。
名古屋に戻ってすぐに店を始められたわけではなく、当初目標だった名駅の再開発エリアから流れ流れて今の場所へ。ココでハンバーガーをやることに消極的な意見を漏らす人もいたが、「チャレンジするから面白い!」と、女性にも親しまれるバーガーショップを目指して昨年'06年の12月にオープンした。
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2007年04月26日
# 171 chorky's DINER [岐阜・大垣]
快速ムーンライトながらの終着駅、大垣。
●水都球春
水都、あるいは松尾芭蕉「奥の細道」結びの地。ただ復元大垣城のガラス窓――アレはいただけません。
大垣といえば今春、第79回選抜高校野球大会において、大垣日大高校が岐阜県勢としては実に48年ぶりとなる準優勝の快挙を成し遂げたばかり。その白熱の決勝から5日後の大垣だったが、しかしそこまで派手派手しい祝勝ムードに包まれるでなく、街はいたって落ち着いていた――夏も期待できそうだ。
今回の店も駅から離れた場所なれば、近鉄バスの厄介に。金蝶園だか金蝶堂だか、どっちだかよくわからぬ菓子舗がやたらとリフレインする城下を抜け切り(両店、仲悪かったり)、降りたバス停が「禾ノ森」――読めますか? のぎのもり。住所が「南頬町」――みなみのかわちょう。こりゃヨソ者はすぐバレるな。
通りからやや奥まってダイナー。店の前にたっぷりと駐車スペースを有していて、本場のダイナーらしい店構え。これだけ広いと頭から突っ込んでクルマ停めたくなりますが、しかしみなさんきちんと整列駐車しておられます。
●青いサニトラ、黄色いダイナー
両開きの赤い扉の横に見事なキャンディ・ブルーのペイントを施したダットサン・サニートラックB20、通称サニトラ。マスター、チョーキー氏は「旧車のレストア&カスタム(あるいはポンコツ車の再生)」が根っからの趣味で……そうか! ミーティングの会場として店前のスペースは機能するワケね。
長年飲食業に従事してきたチョーキーさん。愛する地元・大垣の、まるで変わり映えのしない「フランチャイズ天国」な外食事情を憂えて一矢報いん! と、誰もやらないような個性ある店づくりを模索したのが、このアメリカンダイナー構想の出発点だった。
毎年、旧車のイベントを主催していたチョーキー氏が、ポスター貼りにご協力を……と入った岐阜の「セッキーズダイナー」で店主セッキー氏と運命的な出会いを果たしたことで、この一大構想は一気に現実のものとなる。
店内白と黄のタイルでチェック模様。黄色いベンチシートが5席に、カウンター周りのスツールもずらっと黄――ここは黄色いダイナー。
「カスタム」で「黄色」とくれば、これはもうMOONEYESのシンボルカラー以外あり得ない。ライトなイエローに彩られたダイナーはポップで暖かな空気に包まれて、岐阜のセッキーズとはまた違うダイナーの魅力を放っている。トイレに飾ってあるスーパートランプの『ブレックファスト・イン・アメリカ』('79)が、コノ店のポップなムードをよく表しているだろうか。ウェイトレス姿のリビーおばさんが自由の女神に扮したこのジャケ――右手にオレンジジュース、胸ポケットにはサンデー!
2007年04月20日
# 170 Sekky's Diner [岐阜]
美しく濃くとは、誰がその字を当てたのか――。
●ダイナーの様式美
ライトアップされた天守閣が金華山をいっそう高く聳えさせて見せる――楽市楽座、天下布武……ここは岐阜の御城下。
金華橋を渡って、夜の町をバスに揺られること15分、やがてバス通りに赤いネオン管をめぐらせたコノ店が浮かび上がる……マンション1Fです。念のため。
アメリカンダイナーはある種「様式美」の世界である。いかに50年代の突き抜けた世界感を再現するか――そこが各店腕の見せどころ、気合いの入れどころでもあるワケで。
真っ赤な扉を押し開くと、白黒チェッカーズのフロアが続くその先に赤いスツールを並べたバーカウンター。大きく取った窓の方に目をやれば真紅のベンチシートが3組。吊り下がるスチールのペンダント。輝くネオンサイン。エルヴィスが高らかに鳴り響くこの空間は極上にして完璧、惚れ惚れするような筋金入りのアメリカンダイナー! 裏金入りは不届き千万だが、筋金入りなら大歓迎だ。
ダイナーと言えばジュークボックス。置かれた2台のうちの1台は、かつて名古屋ケントスにあったという、由緒正しきWurlitzer 1015――写真上。1946-47年製(推定)――但しこちら現在鳴らず。もう1台はRock-Ola 1434 "Super Rocket"――写真下。1951-52年製――半世紀を経ていまだ現役、骨のある音。
●ジョージーズ・ダイナー
マスター、セッキーさんがアメリカンダイナーに夢抱いたのは中学生のときだった。
父親の趣味(主義)でオールディーズやロックンロールしか掛からない家庭に育った。おかげでオールディーズ大好き少年になったセッキーさんの「夢」を決定付けたのは中学のとき観た『アメリカン・グラフィティ』。この映画に稲妻に打たれたような衝撃を受けて、コノ世界を「日本で再現したい」と強く思うようになる。
オトナになったセッキーさんが惚れ込んで通ったのが名古屋は天白区植田一本松にあったジョージーズ・ダイナー。絵葉書を見せていただいたが、思わずため息が出そうになるほどに"PERFECT!!"なダイナーである。アメグラよろしくウェイトレスがローラースケートでサーヴする徹底ぶり――そこにイソイソとめかし込んで出かけるワケですな? なんという麗しい青春!
やがてそのジョージーズも閉店――で、いよいよセッキー氏の出番ですか。構想からおよそ20年――当時の思いのいまだ変わらぬことに確信を持ったセッキーさんは'02年、ついに自身のダイナーを構えた。
2007年04月14日
# 169 SOUVENIR DINER [名古屋・伏見]
人にはそれぞれ思い出がある。もちろん店にもある――。
●アップタウンダイナーの思い出
マスター福永さんがアップタウンダイナーデビューを果たしたのは16歳――マセた高校生のときだった。もちろん客として。
とにかくそのカッコよさに惹かれ、お金はないけど「無理してでも行く感じ」の店だった。ゾッコン惚れ込んだ福永さんは「ココで働きたい!」と何度もアタックをかけるも、そうは島田町問屋街。スタッフにいつも空きナシ――みんななかなか辞めないのだ。アップタウンダイナーで働くことはそれ自体、一種のステータスだった。
御縁のないまま19歳のとき作戦変更、向かいのカラオケ屋でバイトを始める。ココなら毎日ダイナーを眺めていられるという寸法――なんと凄まじきアップタウン愛!
しかし眺めているだけでは株券はただの株券。あるときダメ元で門を叩いてみると、このときばかりはスッと開いて、見事宿願のアップタウン入りを果たすことができた。石の上にも三年――微笑ましくもなんと健気な執念!
●コモングラウンド
アップタウンダイナーには4年弱。とにかく大きな店で、スタッフも昼夜2部に分かれて総勢40名に及ぶ大所帯(もちろんシフトで回してます)。それはそれは楽しい日々だったが、テナント契約の都合で2000年(?)に閉店してしまう。
アップタウン閉店後、コモングラウンドという1Fがショットバー、2Fがレストランバーの創作イタリアンの店にのべ3年。あいだ2年店を離れ、アップタウンの元スタッフが桑名に始めたパーキージーンダイナーの助っ人に回り、再びコモンに戻って後、入っていたビルの建て替えを機に自身の店を持つ。
伏見の交差点近く、錦通りよりやや入ったビルの2階。白い鉄扉を開けると細長な店内はバーの佇まい――やや片付かない感じ。白黒タイル……でなくコンクリに直塗りのチェックの床。赤と黒のベンチシートが4組、カウンタースツールも赤と黒。BGM――この夜はスカパラ。スピーカーはダイアトーン(珍し)。くちびるにミステリー、壁にはド派手な皮ジャンが……。
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2006年10月04日
# 152 LOCO-BURGER [名古屋・大須観音]
大須は、東京で言えば浅草とアメ横と秋葉原をミックスしたような町だろうか。
大須観音を中心に(と言っても界隈の最西端に位置するのだが)、いくつもの社寺が一帯に点在して在り、商店街のアーケードがそれらを縦横に結んでいる。土産物屋とか呉服屋とか洋品店とか玩具店とか珈琲店とか、それら古株の間々に若向きの服屋とか雑貨屋とかフィギュアを扱う店とかカフェとかが混ざり込んで、新旧綯(な)い交ぜ。
しかし若いパワーがボーンと全開炸裂しているでもなく、この歴史ある街並みの湿気の中にうまく――かどうかは分からぬが――抱合されていて、その空気から突出することはない。一部の通りにはやや錆びた趣きもあるが、しかしそういう筋の一つや二つ、浅草にだってあるだろうという程度。浅草と違うのは、バスを連ねて観光客がバンバンやって来るような町ではないところだ。もちろん土産物屋は盛んだが、しかし此処大須はそうしたヨソからの客に向けられた町でなく、あくまで地元名古屋っ子たちの拠り所といった感じが強い。
それこそ縁日の出店がそのまま常設の店舗になったような居住まいである。なので歩きながら食べられる、"テイクアウト"と言うか、屋台的な食べ物が道の其処彼処でワンサカ売られている。たとえばソフトクリーム、大判焼き、クレープ、たこやき、ホットドッグ、そば焼き、コロッケ、揚げパン、甘栗、台湾名物屋台?(唐揚げデス)、ケバブ、シュハスコetc...国際色極めて豊か、ないしはヒジョーに怪しい、よく言えば極めてエキセントリックな(←しかし都合イイ言葉だね)テイストが色濃く漂っている。そうそう、横浜中華街みたいな裏路地もあるしネ。
普通バーガー専門店というと、まだ少し奇異な存在に映ることが多いのだが、こんな縁日屋台の賑やかさの中にあっては、まるで違和感が無いどころか、むしろバーガーのルーツに極めて忠実な売り方をしている(1904年、セントルイス万博でのスタンド販売で有名になった)と言った方がより適確だろう。新旧&東西文化を幅広く受け入れるこの町の寛容さと下町ならではの人情深さ――そんな大須の空気が大好きで、店主夫妻は'04年4月、観音通りの一角に小さな店を出した。
隣は串かつ屋、向かいの角はジューススタンド、そして道を挟んで富士浅間神社が真向かい。アーケードの商店街らしいスローな空気が溢れんばかりのシチュエーション。店の前に10席ばかり、種類バラバラの椅子机を並べて、そこでいただく――つまりこれは屋台である。
ご主人は江戸で言うならチャッキチャキの職人さんで(尾張弁では何と言うのか)、「自分はただやるべきことを当り前にやっているだけ。持てるもの全てを注いで、それで美味しくないと言われたらそれまで」と、まさに竹を割ったような明快な想いでバーガー1つ1つに全身全霊を込めて作っておられる。
「ずっと対面のサービスがしたかった」と言うご主人。見ていると、間断無く入る注文を片端からテキパキとこなす姿が実に気持ち良い。「当たり前のことをやっているだけ」とは言うのだが、しかしその当り前は世間一般からすれば随分手の掛かったもので、例えばパティについては部位を切り出すところから作業し、肉の状態を見てミンチの配合を自分で決めるといった、普通は肉屋がするようなところまで技能を得て自身でこなしてしまっているのだが、しかしそれはご主人に言わせれば全て「当り前」のことなのだから、つまり褒め様が無い。この人の場合、「褒め様が無い」というのが最高の褒め言葉かも知れない。
最上級のステーキを片手に収まるスケールにぎゅっと贅沢に凝縮させて――というのがロコバーガー¥480のコンセプト。
全ての具材が混然一体と混ざるタイプのバーガー、あるいは「パンの間にハンバーグを挟む」という基本ルールを押さえつつ、独自のアイデアを凝らした独創的なバーガーと言っても良い。他にマグロを使ったアヒカツバーガー¥480、チキンみそかつバーガー¥480、ゴルゴンゾーラチーズバーガー¥480、プレーンバーガー¥380。フライドポテト¥150、大粒のブラックタピオカ入りモミティーは¥350。値段は"大須価格"だそうで、「これ以上高いと売れねえよ!」というギリッギリの設定と……ココでもバーガー500円上限説は健在。
カゴに深々と収まり、紙ナプキン代わりのポケットティッシュが添えられて来る。四角い扁平バンズはイタリアの食パンで有名なチャバタ生地。敢えて余分な味を除き、言わば「ごはんのような存在」を目指した。そのためか、途中どんなに個性的な具材の味に出会おうとも、食べ終わってみれば意外やさっぱりとしていて、まるで重くない。ちょっと粉を振り過ぎな気もするが、なかなかのアイデアものだ。
中は名古屋風味の甘辛味の効いたキンピラにシュレッドオニオン、ベーコン、チーズ、トマト、ふわふわの玉子焼き状エッグ、ソース、パティ、レタス&キャベツは千切り状、下バン。味のリードはトマトソースに酸味をまろやかにするために赤ワインを加えたソース。甘酸っぱさが軽快なこのソースがグーッと全体に回り込んで、巧くまとめている。
レタスの風味とキャベツの歯ごたえを活かしたフレッシュ野菜とチャバタ生地のバンズの食感がまず前面に立って、ややドライな感じのバーガーだが、感触絶妙なるパティと言い、玉子と言い、下味程度にほんのり効いたモッツァレラチーズと言い、トマトと言い、最後に余韻を残すキンピラのほの甘い味噌味と言い、細かな細かな味のバランスの上に成り立つバーガーで、「480円」という値段を考えれば相当に贅沢な一品だ。
さらにこのロコバーガーにゴルゴンゾーラクリームチーズと焼きオニオン、ガーリックチップをトッピングしたロコスペシャルバーガー¥580があるが、こちらの方が味がグッと前に迫り出して来ると言うか、より立体的に感じられて、一段と美味しさが増している。鉄板の上でカリッカリに焼けたゴルゴンゾーラの"耳"、そしてガーリックチップのアクセントが絶品! でも後口さっぱり!
キーワードは「根っこ」
loco(ロコ)という言葉は「ローカル(local)=地元」という意味のハワイ語と英語の混成語で、ロコバーガーという店名には、ご夫婦ふたりが大好きな「ハワイの」という意味とともにもう一つ、「地元の」という意味も多分に込められているという。
最近ご主人は、ふとしたきっかけから各地のイベントに呼ばれてバーガーを焼く機会が増えているそうなのだが、しかしそれも大須という「根っこ」があってこそやっていけることなのだと。厨房周りが狭く、ときに食材の貯蔵にすら場所欠く店ながら、でも野菜が無くなったと八百屋に言えば3分で持って来てくれる――そんな商店街ならではの融通と付き合いの良さが地元の頼もしさであり、また気安さでもあり、言うなれば商店街全体がロコバーガーの大きな台所の様な存在なワケなのであって、それほどまでに心強い「根っこ」をバックに持っていること自体、昨今なかなか無いことではないかと羨ましくすら思えるほどに、ロコバーガーは心底ロケーションに恵まれている。
"大須"という町があって、そこに暮らす人がいて、そこに自分たちの店があって、そして奥さんが留守を守っていて……地元に深く根っこを生やした、世界に一店きりの個人店というものの持つ、意味合いの深さ、あるいはその"大切さ"、そして"素晴らしさ"といったものを、今回私なりに初めて理解できたような気がしている……ってまぁ、"気がしている"程度じゃあアカンのですが。
§ §
さて、ムダ話もそろそろやめとかないと、職人肌の――て言うか職人なんですが――ご主人から「余計なこと言うんじゃねぇよ!」と、どやされるやも知れない(ご注意:実際のご主人はそんなオッカナイ方ではありません――脚色です)。てコトでここらで終わらせときますか。
……あぁ〜しっかし褒めるところのひとっつも無い店だなぁ〜!!
→ # LOCO-BURGER [名古屋・大須観音] のロコバーガー
# LOCO-BURGER [名古屋・大須観音] のスペシャルバーガー
― shop data ―
所在地: 愛知県名古屋市中区大須2-17-35
地下鉄鶴舞線 大須観音駅歩5分 地図
TEL: 052-203-8161
オープン: 2004年4月29日
営業時間: 11:00〜20:00
定休日: 水曜日(要確認)