2013年01月01日

【新年のご挨拶】 ハンバーガーはブルースである




 新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

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 初夢、初詣、初競り、初日の出……新年は諸事新しいことが慶ばれるが、年の初めの最初の記事は、そうとばかりも限らないという話から始めてみたい。

 去年の年の暮れ、こんなことがあった――。

 ある店へ行くと日本人のミュージシャンが二人いて、エレキギター2本でブルースを演奏し始めた。ありきたりな日常のありきたりな思いを日本語の歌詞に乗せて歌った。以前どこかで聴いたような、特別めずらしくもない、毎度同じなブルースの調べである。しかし会場は沸いた。めずらしくも新しくもないブルースに、それでも会場は大いに沸いたのである。そこでふと気付いた……なるほど彼ら観客は、ブルースに新しさを求めているワケではないのだと。



 ブルースはパターンミュージックである。コード進行が決まっていて、その上に乗るメロディーも似たり寄ったり。まずもって以前どこかしらで聴いたようなメロディーであり、歌詞である。しかしだからと言って客はそのことで怒りなどしない。メロディーに新しさが無いからこのブルースは駄目だなどとは一切思わない。どこかで耳にしたメロディーであろうが歌詞であろうが、それでも大いに満足するのである。満足出来るのである。なぜか――彼らは「ブルースが」聴きたいからである。


 耳新しいメロディーや奇抜な展開など、彼らは求めてはいない。聴きたいブルースがそこに流れているからこそ拍手喝采を送るのだ。つまり、如何に「ブルースであるか」「ブルースしているか」が彼らにとっての最大の関心事であり、満足のしどころなのであって、「新しいこと」「今までとは違うこと」というのは彼らの求めているポイントではないワケだ。欲求を満たす要件ではないワケである。

 つまり彼らは「ブルースが」好きなのである。モノの新旧は問題では無い。むしろ如何にそのものが「ブルースしているか」という点に愛好する者の価値基準・評価基準が置かれているように思われる。ブルースはブルースしていなくてはならない。ブルースはブルースでなければならない。「ブルースがブルースであること」こそが、彼らが何より求めているものなのである。


 それは「エルヴィスはエルヴィスでなければならない」「永ちゃんは永ちゃんでなければならない」というのと同じである。年々歳々・平々凡々、永久不変のマンネリズムで大いに結構。変わり映えなどしなくたって一向構わない。私の好きな、そしてあなたの好きな「ブルースが聴きたい」という、彼らの望みはただそれだけのことなのだ。

 そういうのこそを「本当に好き」と言うのではないか、と私は思う。

 食べ物で言うなら、十年二十年と同じ店に通い続け、同じ席に座って、いつも同じ品ばかりを頼む……そういうのこそがそのものを「本当に好き」な状態と呼べるのではないだろうか。「本当に好き」と言うと語弊があるかも知れない。「深く好き」「芯から好き」と言うべきか。生活に滲みて、いや、その人の人生に滲み込んで「好き」というのはそういう状態だろうと私は思う。


 米国カリフォルニアのハンバーガーチェーン"IN-N-OUT"のハンバーガーメニューは、ご覧の通り、"HAMBURGER" "CHEESEBURGER" "DOUBLE-DOUBLE"の3品のみである。日本で言えば、「かけそば」「きつねそば」とその「大盛り」といったところだろうか。

 もっと品数の多い、バラエティに富む品揃えのハンバーガーショップは他にたくさんある。だがそんな中にあってIN-N-OUTは、加州を中心に大変人気のある、十分成功したチェーン店の一つとして知られるのである。このたった3つのハンバーガーだけで客の心を十分捉えているのだ。変わり映えのしない同じメニューに飽きもせず「これがイイ!」と心に決めて通い続けるファンが、1948年の創業以来たくさんいるワケである。

 ここで考えたいのが、果たしてあなたは「ハンバーガーが好きなのか」、それとも「新しいものが好きなのか」ということである。


 もちろん上に挙げたような「通(つう)」になるには、その前段階として、自分に合うもの・気に入ったものを取っ換え引っ換え、アレもいい、コレはどうだ……と探し求める期間が不可欠である。

 また「食」という分野には、新しいものを追いやすい面が確かにある。季節の移ろいにつれ変わりゆく旬の味、年中行事やイベント事の際に供される特別な菓子や料理。そうしたものをその時々に味わうことは、いかにも「食」らしい楽しみだ。だからこそ、気が付けば新しいもの「ばかりを」追い駆けている状態にも陥りやすい。

 常に新しいもの・変わったものを欲している状態というのは、実はソレそのものを本質的に好いているワケでは無くて、新しいものを追い駆けるというその行為自体に夢中になっているということだって十分考えられるのだ。


 何ら新しさが無くとも、奇抜で無くても、「ブルースがブルースしている」というその一事だけで沸き返り、夢中になれる――そんな彼らの楽しみ方と、常に新しいもの・変わったものを求める楽しみ方とは根本的に違うものであると私は思う。

 そして「ブルースがブルースしている」というその一点だけをもって観客を大いに沸かせ、酔わせ、魅了する――そんなブルースという音楽の持つ力強さと骨の太さをまざまざと思い知らされた私は、だからこそ強く思うのだ――ハンバーガーだって同じではないか。ブルース同様、ハンバーガーも「まずハンバーガーである」というその一点だけで食べる者を大いに喜ばせ、満足させ、魅了する食べ物であるべきではないのかと。

 ブルースの最もブルースたる部分、ブルースにとって最も大事なものは何かと言えば、これはもうその精神だろう。魂。それはロックについても言えるだろうし、世界万国の伝統的な民謡・民俗音楽の類においても同様だろう。要は見てくれがどんなにブルースであろうとも、まず心がブルースで無い限り、聴く者の心の奥底までヒタと沁み入るような真のブルースを奏でることは出来ない――ということである。つまりそれこそがブルースの最もブルースたる部分、つまりブルースの「本質」だ。


 ではハンバーガーにとっての「本質」とは何か。ここで「まず作り手の思いが……」などと精神論を始める気はない。本質は極めて単純、ハンバーガーとは只々「肉」料理なのである。だが、たったそれだけの単純なことをしっかり踏まえた上ででないと、ブルース然り、ハンバーガー然り、その他あらゆる音楽も料理も、真に良いもの・優れたものを生み出すことは出来ない。なぜ出来ないのか――それは単純なこと。「本質」を飛ばしているからである。抜かしているからである。

 上に何が乗ろうが何を挟もうが関係無い。ハンバーガーが「ハンバーガーである」という只その一点において満足を与え、要求をクリアするハンバーガーで無くして、真に「ハンバーガーである」とは言えないのではないか。何が乗ろうが何を挟もうが、「ブルースはブルース」なのであって、現にそのただ「ブルースである」という一点だけをもって、人をあれだけ夢中にさせることが出来ているのだから。


 そんなワケで冒頭の映像は、札幌「ハンバーガー リサ」の店主・山田ツクルさんのロサンゼルスでのプレイである。

 日本人独り、ギター1本抱えて米国に渡り、黒人ばかりのライブハウスに飛び込んだ――その心境たるや会場の誰よりもブルージーだったに違いない。ツクルさんが浴びた拍手と喝采は、表面的な演奏技術以上に、何よりブルースの「本質」を正しくよく理解し、自分のモノとしていたことに対する、内面への評価であったのだろうと私は考える。つまり多くの観客が「お前のブルースは本物だ」と認めてくれたワケである。海を渡ってやって来た東洋人が歌うブルースを。

§ §

 何事においても基礎は大事である。産業も経済も、基礎があって初めてその先に応用が成り立つ。

 もちろん新しいものを追い求めること・作り出すことについては、それが人間の自ずと向かう道であるが故に一切否定はしないが、但し人間、新しいものや変化にばかり目が行きやすい反面、変わらないもの・動かないものには関心を寄せ難いものである。とかく新しいことの多い新年だからこそ、長年ずっと変わらぬもの、変わらずとも愛され続けるもののみが持つ、確かで静かな「力」について着目してみたく思い、記事にした。

 ハンバーガーはブルースである。本当にハンバーガー(ブルース)が好きな人にとって、それが目新しいものであるか・変わり映えしないものであるかなど問題では無い。今そこにあるハンバーガー(ブルース)があなたの愛するハンバーガー(ブルース)であること――それが全てなのだ。



2013.1.1 Y.M
posted by ハンバーガーストリート at 01:01 | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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