2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震におきまして被害に遭われた皆さまに、心よりお見舞いを申し上げます。
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温泉地・越後湯沢のハンバーガーショップ「WELCOME KITCHEN(ウェルカムキッチン)」を後にして、ロープウェイに乗った。
山上は湯沢高原スキー場 アルプの里というスキー場で、「グリーンシーズン」と呼ばれる雪の無い期間、特に夏場は、ゴーカートにボブスレー、パターゴルフなどの各種アトラクションを楽しむことができる。青空を背景に真っ白な入道雲でも湧いていれば言うことは無かったのだが、私の人間としてのおこないは所詮こんなものである。
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高地なので高山植物園もある。時間があればエーデルワイスとかナデシコとか、見るべき可憐な花々は数多あったのだが、あまり深入りせずに先の行程を急ぐことにした。
展望レストランとイタリアンレストランもある。「雲の上の足湯」もあったが、先の足湯での暑さもあり、これにも浸からなかった。「恋人の聖地」と書かれた鐘(天空の鐘)があったので、これだけは友人たちのために鳴らすことを忘れなかった。果たして誰がために鐘は鳴る――。
青空こそ見えなかったが、山上に吹くそよ風は実に心地好く、広場に置かれたベンチに腰をおろして日がな一日、記事書きか読書に没したいところだったが、この旅は決して休暇ではないので、時間がそれを許さない。撮り収めねばならない写真の撮影もある。
これが山上の「パノラマステーション」から撮った湯沢の町である。写っている限りで町の主要部は大体収まっている。言ってもこの程度の規模の温泉街なのである。大きくはない。
一方ロープウェイを境に駅とは反対の左手には布場(ぬのば)スキー場がある。このスキー場の歴史は古く(参考こちら)、既に大正末期には開設されて、昭和期を通じてスキーリゾートが盛んだった、いわゆる「メッカ」と目される土地である。
標高1,170m、大峰山(おおみねやま)の山頂から山麓まで3つのゲレンデを総称した湯沢高原スキー場の夏場のグリーンシーズン――この時期をハンバーガーショップとしていかに迎えるべきか・送るべきか、というのが今回私に託され相談された依頼内容である。それが今回の旅の真の目的だ。
確かに夏場のスキー場は寂しい。と同時に実にのんびりとした、ぽかっと開け放ったような大らかな面持ちもある。嫌いではない。
ロープウェイ乗り場の脇から続く布場ゲレンデ。ゲレンデ麓のロッジ伝いに道なりに歩いてゆくと、先の高台に旅館がいくつか建っている。次の目的地はそこである。
湯沢ではこの辺りは「湯本」と呼ばれている。何でも平安末期にはこの辺りから湯が湧き出ていたというから、キャリアは900年。総本家中の総本家だ。誰も湯本には敵わない。またちょっと高台に構えている辺り、その威をよく物語っている。
その湯本への坂道を上る途中、蛙に遭遇した。温泉場に蛙と来れば志賀直哉の『城の崎にて』……いや、島木健作『赤蛙』か。いやいや、今回の旅の主題はそのどちらでもない。
ましてこんな両生類、路傍で偶然出くわしたところで何の情も通じないのだから、情けをかけるだけ意味が無い。こちらの気など欠片も理解していないのだから、付き合うだけ時間の無駄である。小野道風も今回の主題ではない。
坂の上の老舗旅館雪国の宿 高半へ急いだ。ここで川端康成は小説『雪国』を書いた。当時、川端が滞在した部屋が保存されている。「かすみの間」という。一度観てみたかった――越後湯沢に来たからには、これこそが主題である。
湯沢に来ての一番の感想は、国境の山々の高さが私の想像していたよりはるかに険しく、高かったことである。つまり雪国は、私が想像していたよりはるかに山国だった。
今では旅館の足元を上越新幹線のトンネルが抜けている。すぐ裏手はガーラ湯沢駅だ。もうぎりっぎりの風情といったところだろう。
なにしろこの上越新幹線の物々しい高架が無粋である。無機質で冷たい巨大なコンクリート塊が静かな温泉町を分断している。
湯沢の人にはもうすっかり馴染んだ風景なのかも知れないが、初めて訪れた私には少なからず違和感あるものに映った。
さてWELCOME KITCHENの大平さんが「湯本の湯の質がダントツで一番」と強く薦めるので、町営の共同浴場山の湯に浸かった。
私以外の利用者はことごとく地元の人という感じの浴場である。温泉地に住むとこういう楽しみが日常的にあるのが羨ましい。
なるほど流石は湯本の湯なのか、いくら体を洗い流してもまだ石鹸が残っているかのような、肌にまとわりつく湯の質が何とも滑らかで気持ちよい。
『雪国』で島村と駒子が腰をおろした平な岩。諏訪社と呼ばれる神社の御神木の根方である。
もう日が暮れかけてきた。諏訪社のすぐ下を上越線が通っている。線路の向うが石打。そして終点の長岡へと続く。
温泉街のある西口とは反対の、町の東側を通って帰った。この東側の方が昔ながらの湯沢集落の暮らしが残っている感じで、小説のイメージにも近い。
西側の方が賑やかなのは間違いない。店の閉まりも一段と早く、既に午後8時過ぎで通りは閑散としている。
夕食もそばを食べ、旅館に戻って一眠りした後、約束どおり夜もう一度WELCOME KITCHENを訪ねると、今度は大平さんの奥さんも来ていて、店は二人だった。
ちょっと話すつもりが例によって話がディープに盛り上がり、ヘタをすると徹夜に突入しかねないところをどうにか留まって、午前0時を過ぎて解散。宿が夜食におにぎりを用意してくれていたので、コンビニに酒類を調達しに行くと、ご当地エチゴビールが置いてある気の利き様!
流石に夜は首都圏より涼しく、よく見えない目で「嘘のように多い星」を夜空に見上げた後、久しぶりの快眠を得た。
翌朝は散歩がてらに川沿いを歩くも不動滝までは辿り着けず。マイナスイオンを浴び損ねる。写真はその手前の砂防ダム。この日も気温は高め。マイナスイオンで無いにせよ、冷気は受けておきたいところだった。
そしてこれもまた「WELCOME KITCHEN」大平さんのイチ押し、「笹だんごならココ!」と言われた「とのや」で名代の笹だんごを一つ購入。これを朝食代わりに三たび「WELCOME KITCHEN」へ。
この日は火曜で店は定休日。その休日を利用してのインタビュー取材とそして相談話のあれこれ。
当ハンバーガーストリートにおいても初の新潟県の店である。そしてなんと、『ON THE ROAD MAGAZINE』の配布協力店でもあった。店主大平さんは都内に都合8年暮らし、その間に主だった東京のハンバーガー店を回っている……などと書き始めると長くなるので、委細別記事にて。
12時前に訪ねて解散は19時過ぎ。この日もあれやこれや7時間もしゃべってしまった。ハンバーガーの話というのは尽きないものである。
行きは在来線を乗り継いで来たが、帰りは高速バスで帰ることにした。新潟交通の高速バスに乗車。出元もちゃんとしているし、日付を越えるような運行では無いので、ま、大丈夫だろう。
キャンペーン中とのことで湯沢−池袋がなんと2,400円! ただ一つの難は、てっきり湯沢駅前のロータリーで乗降できるものと思っていのたが、そうでなく、関越自動車道の湯沢ICが乗り場で、そこまで行かねばならないという点である。なので町外れのインターまで大平ご夫妻に送っていただき、帰途に着いた。
乗ってしまえばもうこっちのもの。3時間弱で池袋駅東口着が着く……のだが、乗って早速睡眠不足の解消に時間を当てても、まだ着かない。座りっ放しで歩き回れないのはやはり辛い。
時間を持て余し読書して、騙し騙しどうにか蒸した都会のアスファルト道の上に降り立つことができた。湯沢IC発が19時26分、池袋駅東口着22時20分。何らかの手段によって自ら意識を無くしてしまわない限り、やはりバス旅は辛い。
池袋に着いたら寄ろうと決めていたのが、サンシャイン通りの一本裏手にある「Bar SORA」である。そう、池袋「EAST VILLAGE」のオーナー竹河内さんの店。無事の帰還をエビスの生と、すばらしい音楽と共に――。
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これが今回の旅のあらましである。さぁそろそろ「WELCOME KITCHEN」の話をしなくてはならない。週末にはフジロックが始まってしまう。急がなければならない。旅気分もそこそこに、すぐさま記事書きに取り掛からねばならなかった。 (つづく)
2012.7.25 Y.M