![ハンバーガーを飾る、さまざまな「言葉」について](http://hamburger.jp/thumbs/special712_47.jpg)
2011年3月11日金曜日に発生した東北地方太平洋沖地震におきまして被害に遭われた皆さまに、心よりお見舞いを申し上げます。
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以下はハンバーガーをはじめ飲食店を利用する客の側、消費者の側に対する意見である。
どうも我々は言葉に弱いように思う。「黒毛和牛」「A5ランク」「天然酵母」「焼き立て」「手作り」……そんな言葉を聞くだけでおいしく感じてしまう。「おいしい気になっている」と言った方がよいかも知れない。料理に満足していると言うより言葉に満足している感がある。
だが消費行動の大半は、実はそういうものなのかも知れない。「有名なアノ店で食べた」ことがすなわち「満足」であり、「アノ店で食べた」という達成感によって味覚的な探究心までもが満たされてしまっているのである。
果たして肝心の料理の中身について、冷静に細かな評価を下している人がどれほど居るだろうか。「店の評価」と言うと、雰囲気がどうだったとか、接客がどうとか、ドッグOKで子供連れはNGだとか、分煙がどうとか、そんな意見の方が多いように思うし、店の評価を決定付けているのはむしろそれらである気もする。実際料理の感想よりも言いやすいのだ。
とにかく言葉が先行し過ぎている。「食べた結果おいしかった→なんでだろう? →黒毛和牛を使っているから→なるほど!」なら解かる。黒毛和牛、A5ランク、「だからおいしい」という等式はひとつも成り立たないと思う。大リーガーだから打つとは限らないのと一緒である。
もちろん丸っきり根拠の無い上に「ブランド」というものは成り立たない。ブランドとは「満足できる確率がより高い」ことを保証するひとつの指標であり、信頼である。だからより確実な結果を得るための参考材料としてブランドという目印が有効なワケであるが、だとしても、その指標に対する依存はいささか度が過ぎている。盲目的である。信頼を超えて信仰・信奉に近い。その言葉の信奉から一度離れるべきだと私は思う。
と言いながら、私もそういう言葉を記事中によく使っている。なぜか――使いやすいからである。わかりやすいからである。それらの言葉は記号的なわかりやすさを持っている。
だが言葉のその明快さとは裏腹に、実際食べてみて、A5ランクとA4ランクの違いが言い当てられる人がどれほど居るだろうか。まして日頃これだけ化学調味料が利いた、濃い味の食事に慣れ切っているワケだから、そんな微小な差異を正確に判別出来るような「神の舌」の持ち主にその判定の瞬間だけ突如なれるとは到底思えない。それこそ漫画の世界であり、テレビ番組であり、幻想である。
とにかく行き過ぎた言葉の信奉から一度離れて、言葉に依らない、ブランドに依らない、純粋で素直な感想を心がけるべきだ(ただこれも、こう言葉で書くほどには簡単ではないのだが)。
いくら「手作り」と謳っても市販品の方がおいしいなら、その言葉以上の価値は無いことになる。その味が判らなくなるくらいの大量のソースや調味料をかけてしまっては、どんなにA5ランクの和牛を誇っても意味が無い。「焼き立て」のパンがおいしいのは事実だろうが、でもご存知の通り、焼いてすぐの生地はやわらか過ぎて刃物で切れない。だから焼き立てのバンズはハンバーガーには向かない。
もちろん言葉通りのおいしさが味わえることもある。それは素材が良いことと、あとひとつ、その素材の良さを最大限に発揮できる「腕」があるからだと私は思う。優れた素材のみで料理は成立しない。「材料に手を加えて食べ物をこしらえること」(『大辞泉』)が料理であるのだから、もしおいしいと感じたときには、素材以上にその店の「腕」を称えよう。その良質な素材を額面通りのおいしさに仕立てたその腕前、その技量をこそ褒めるべきである。
雰囲気を褒めるのもよい。接客を褒めるのもよい。それらは飲食店という場にとって必要欠くべからざる大事な要素だ。だが「飲食店」「料理店」と言うからには、やはりその本業たる料理を褒めないことには始まらない。
「黒毛和牛」「A5ランク」……その魅惑的な言葉の響きに惑わされず、左右されず、鵜呑みにせずに、純粋にその店が誇る腕前の真価を見極めたいものである。
2012.5.1 Y.M