此処は熱海銀座――通りからぷいと脇道に入ると、逆光を浴びた佇まいが何とも神々しく見えたものだ。マスターは東京生まれの東京育ち。進駐軍で働いていた。東京銀座の服部時計店(いまの和光ビル)が接収されて進駐軍のPX(Post Exchange, 購買部)になっていた頃、そこでハンバーガーと出会う。
'52年、23歳のときに熱海の銀座にボンネットを開店。店名は壊れかけたワーゲンの……ではなく、帽子から。ハンバーガーを始めたのは55年とか6年とか、とにかく開店と同時では無いような口ぶりだった。当時は進駐軍が流行も、娯楽も、食べ物も、音楽も――あらゆるものの発信源だった時代である。その発信源のど真ん中に身を置いていたわけだから、それこそありとあらゆるものが強烈に魅力的で、刺激的で、多感な若者は乾いたスポンジのようにみるみるとそれらを吸収していったに違いない。
どうして熱海で店を始めたのかは聴かなかったが、東京から来た若者が始めたジャズの流れるハイカラな喫茶店は、一目もニ目も置かれる存在だった筈である。熱海ゆかりの文人・著名人らもよく訪れたというから、時代の最先端をゆく彼らのウルサイ好みをも、きっと十二分に満足させていたことだろう。
新宿辺りにある古い喫茶店を想像してもらったらよい。奥に長い店内――黒い床の上に、かつてクリーム色の背に赤色のクッションだった合皮張りの椅子が四席ずつ、ずっと奥まで並んでいる。白い壁には(多分)バロック風・華美なデザインのブラケットランプが等間隔に。このインテリアの規則的な連続が、奥に長い店の形を巧く活かした空間演出を成している。
奥の壁はもちろん鏡。黒い階段を上った2階の暗がりから聴こえるBGMは、粋で素敵なムードミュージック。ちょうど腕の高さに壁から張り出す肘掛の、裏側から零れる蛍光灯の間接照明、そして店の中央に並ぶショーケースの明かりが印象的。
ハンバーガーセット、ハンバーガー&コーヒーで¥700。単品¥500。底を二重にしたバスケットに紙を敷いて。手のひらサイズの小ぶりなバーガー。バンズてっぺんにピクルス、付け合せはフレンチフライ。裏マスタード、そしてソース(「コメダ」以来)、パティ、下バンにバター。レタス1枚と生のオニオンが外に。
バンズは縁のコゲがサクサクと気持ちよく、辛い生オニのシャクシャクと相俟って、クセになる歯応え。
オニオンの辛味に次いでやや甘目のソース味が効いており、更にはそれらの味をサイフォンで入れたコーヒーの軽やかな酸味が中和するかのようにサラリとまとめ上げる。パティはハンバーグだが粘らずサッパリとしていて、ソースを用いたバーガーとして実に実に完成されている。まとまりある味覚に歯切れの良い食感。すごくしっかり・はっきりとしたエッジと主張を持った、表明するバーガー。
さてこの印象深い白いオニオン――日比谷三信ビルの「NEW WORLD SERVICE」もコノ味だった。意志を以って乾燥させないと、こういう風にはならないだろう。ワザと乾燥させて、以前書いた通りの「タテヨコの比がぴったりと合ったサイの目の食感」を出している。
銀座のPXと日比谷のNWS――どちらもGHQ体制下の中心部に位置していたわけだから、PXでハンバーガーに出会ったボンネットのマスターとNWSは、あるいは同じモノを見たのかも知れない。つまり当時あったハンバーガーはほぼこんな姿だったのである……という仮説。
さらにはこのバーガーのサイズ……六本木の「ハンバーガーイン」も横須賀の「ハニービー」も、仙台の「ほそや」も、佐世保の「ブルースカイ」も、どこもおよそこんな大きさだったことを、私は単なる偶然だとは思えないのである。
偶然でないのなら、ではつまり進駐軍のハンバーガーは小ぶりだったのか――。あるいはコレが当時の日本人のスケール感だった――という考え方もという考え方もできようか。2006年の今、バーガーショップ/ダイナー各店が競って作るアメリカンサイズのバーガーとは大きく違う、このサイズ感――実は何かスゴイ曰くや背景が隠されているかも知れない……なんて、こんなことを書くうちに、もう一度店を訪ねてマスターからもっといろいろと当時の話を聴いてみたくなってきた。近くもう一度行くかも知れない。次回は三島由紀夫でもきっちり一冊読んでからにしますかな。
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いずれにせよ日比谷と熱海、思いもかけない場所と場所から、思いもかけない歴史が垣間見えて、何か私の中では輪が繋がったような思いがするのである。……にしてもだ。こんな落ち着いた喫茶店で華麗なるストリングスサウンドなど聴いていると、身も心も洗われたようになって……本当に気持ちイイったらありゃしない! 要らぬ肩の力が抜けて、重心がスウーッ……と下がってゆくような、そんな感じを覚えるのである。壁に架かる黒いパネルに描かれたハンバーガーのイラストは一個当千。
2006.3.7 Y.M